私と信仰のこと。(2)

まず、私は特定の宗教を信仰していません。私はお寺にて住職の子として生まれているので、仏教の経典にはいくらか触れており確実に思想は影響を受けていますが、「哲学としての仏教」の認識が強く、宗教としての信仰は(多分)ありません。聖性を感じることが信仰のポイントとなっているのではないか?と思っています。

いくつかの宗教の経典について浅く触れているのですが、概ね「我・エゴ」の働きから自由になること、もしくはそれを別物に据えて戦うことをやめることを、それぞれの方法で説いているのではないか?と感じました。

私は、自分自身の体験としても、身近な人の体験としても、いくつかの奇跡を知っています。そのため、奇跡を特別なものとは思っていません。ある神様特有のものとも思っていません。何を信じていても、それは起こるように見えるからです。

Aの神を信仰する人に、Bの神を信仰する人が「頑なにAの神を信仰するあなたに、Bの神がその存在を教える為に、Aの神として奇跡を起こしてみせたのだ。」と言う事もできてしまう以上、奇跡を信仰の根拠とすることは、際限のない水掛け論になってしまうものと考えます。

それを、「この神が奇跡を起こしたのだ!」と人が確信した時、奇跡を起こした神は確定し、信仰は篤くなっていくもののように思います。理屈を超えて、神は心に現れるのだと感じます。

であれば、心に「神」を感じさせるものが、私にとっての神と言えるのかもしれません。

私にも、神を感じる瞬間はあるような気がします。 それは、記憶に残らないような、凄くささやかな、空気の中にあるもののようです。


子供と手を繋いで歩く道でふと見た空。

信仰の対象とされる像、その頬にとまる生きもの。その動くさま。

朝露に濡れるゴミ収集所の袋に光る露の輝き。

泣きながら入る湯船から立ち上る湯気。

信号に従って動く雑踏の流れ。

風にはためく喫茶店の、のぼり。

老いた手の頼りないやわらかさ。

スポーツ選手の躍動する体。

キーボードを打つ手。

靴を履いた足。

私を見つめる瞳。

建造物が作る影。

川を泳ぐ亀の背。その後に続く波紋。

体の重み。

吐息に揺れる産毛。

黙ってお茶を飲むテーブルに流れる空気。


それらを通して、私の心に神様が現れているような、 そんな気がします。


「私は生きている。」
「世界がここにある。」


その確かな幻想が、私の信仰なのかもしれません。 それを私に与えてくれる神様を、私は信じているのかもしれません。

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